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日本人にとってアフリカはいまでも遠い国々でしかなく、ただ、昨今の衝撃的な報道で、飢餓、内戦、暴動、難民という言葉と、目をおおいたくなるような悲惨な映像だけが、鮮明に焼き付いているのではないだろうか。
数年前、わたしは、人類学者の夫が調査のために暮らしていた、エチオピアの西南部の小さな村アボボを、訪ねることができた。そこは、昔のままの地元の生活がまだ濃厚に残っていた。電気も水道ももちろんなく、水は、川から汲んできたものを使っていた。私たちを、村では、長老達から、子供達まで大歓迎してくれた。現地の言葉ができる珍しい外国人として夫は、特に人気があり、その妻である私にも興味津々といったところだった。 しかし、その歓迎の振るまいのおかげで、私はさっそく下痢と発熱で翌日からダウンしてしまった。川の水がいけなかったらしい。数種類の抗生物質をのみながら、あの大歓迎に答えられない肉体を情けなく感じながら数日をおくった。体調が戻り、親しい村人の家を再訪したとき、一人の母親が、高熱の幼児を連れて夫を尋ねてきた。薬がほしいという。どうやら扁桃腺が腫れているようだ。夫は、手持ちの抗生物質を1カプセル与えた。私は、自分が子供の頃から扁桃腺炎でよく寝込み、必ず数日間、薬をのみ続けた経験から、おもわず「もっとあげなくて良いの。」と聞いていた。ところが、夫は、「驚くほど良く効くのさ。ここでは。」といって取り合わなかった。 アフリカの村での幼児死亡率は、非常に高い。生きていくことの厳しい環境で、たくさんの子供達が死んでいく。 それは特別な飢餓や戦争がなくてもである。私たちは、まず簡単に、そうした子供達にも、薬があればと考えるけれど、薬漬けで育った私自身の体質の弱さと、厳しい環境の中で、淘汰され、強い体質だけが子孫として残されていく、まさに自然の掟の中にある彼らの体質の違いを、いやと言うほど思い知らされた。薬のあふれた、豊かな日本では、もしかしたら、どんどん人間が弱体化しているのかも知れないと思えてぎた。 村からの帰路、建設中の電柱を見かけた。もうすぐあの村にも電気が通うらしい。新しい生活があふれるように始まるだろう。そして、文明の毒もまた彼らの村に流れ込むのだろうかという思いが、ふと頭をよぎった。
1986年4月に男女雇用機会均等法が施行されましたが、このような法律ができる事自体、これまで女性と言うだけでどれだけの差別・不利益を被ってきたかを物語っていると言えます。女性は働き続ける事が出来ないのでしょうか....?女は可愛ければよい、お茶くみをして、男が仕事をしやすい環境をつくること、雑用に追われ一日が過ぎて行く。それが女の仕事と思っている人が今でも多々おられることでしょう。実際にそういうことがしたい、そういうことだけして給料がもらえるならその方が楽でいいと考える女性がいることも確かです。(私はそれだけでは絶対にいやですが...) 女性だって、男性と同じように仕事がしたいと考えている人も多いはず。学生時代には男女平等と教えられ、同じように学び、同じように苦労して一流と言われる会社に入社したまでは一緒でもそれからの道が大きく変わってしまうのです。 働き続けたいと思う女性には、「結婚」・「出産」が大きな障害となって退職を強いられることもあるのです。実際に私が選んだ会社がそうだったのです。短大を卒業し、某証券会社(業界日本一・世間で言う一流企業)に入社、毎日毎日時間に追われての仕事、夜10時より早く帰れることはめったにない。「おまえ給料もろてるんやろ、どんな仕事でもせえ!」と言われて男性と同じように、またそれ以上の仕事をし、たとえ相手が部長であれ、次長であれ間違っていることは「間違っています」と言えたし、また素直に聞き入れてもらえた会社でしたが、いざ給料となると男性と女性では大きく違ってくるのです。 また、どんなに仕事ができても、女性に昇進の道はないのです。結婚したら退職しなければならないのです。(就業規則には明記されていませんが、結婚したら当然起こり得るであろう「産休」という項目はありません)「結婚後も続けさせていただきたいのですが...」と申し出ましたが、「それは困る」。「前例がないしねえ.....それは困るわぁ」と断られたのは私だけではありません。実際40代、50代の女性も60歳の定年まで続けている女性もおられますが、全員独身なのです。男性の口からは、「結婚したらつわりやというてはゲェゲェやられて、ああ産休やていうては休まれ、子供が病気やいうては休まれ、そんなんでは仕事にもならんし、たまらんわ、結婚したらやめてもらわんと」という言葉がだれの前でも平然と出て来るのです。「だいたい女なんて動物は...」という言葉さえ聞かれることには「情けない」としかいいようがありません。「男と言うだけで、そんなに偉いのですか?そんなあなたは一体だれから生まれてきたのですか!?」と言ってあげたい気分です。 そんなこんなで結局結婚を理由に約5年間勤務した会社を退職することになったのですが、結婚後新たな職を探そうとしたら、大手企業は新卒しか採用しない、中小企業は「結婚されていてこのお年でしたらいつ子供ができるかわからないし....」という理由で採用されない。結局パートタイマーで行くしかないという状況でした。 以上のような事は、「男女雇用機会均等法」が施行される前のことですので、今はもう少し改善されているかもしれません。今は、結婚した女性もそのまま続けているという話しは聞いたことがありませんし、昨今の不況のあおりをもろに受けているのはやはり女性なのです。とくに今夏問題になっている女子大生の就職難に関しては、資料請求しても送られて来ない、セミナーに参加させてもらえない、参加できても女子だけ資料が渡されない、あげくの果てには面接でセクハラもどきの質問をされたり、スリーサイズを聞かれたりと就職に全く関係のない質問をされ、結果的には採用の意志のないことをはっきりと告げられるなど、許されることではありません。それどころか、その会社の品位が問われると思いますし、そんなことをして恥ずかしくないのかしらと思ってしまいます。法にふれないように、一応男女とも募集をしているだけのことのように受け取れますが、本当に機会は平等に与えて頂きたいものです。 しかし、権利だけは主張して義務を果たさないことは許されません。女性の方も「私は女だから....」と女性であることに甘えることなく、真剣に仕事にとりくむ姿勢はもち続けていたい。女性は女性の、男性は男性の特性を生かし、男女がお互いに補い合い、助け合うことによってよりよい仕事ができるのではないでしょうか。機会均等法といっても何もかも同じでなければならないというものでもありません。「女性にだけ生理休暇が認められるのはおかしい」とする人もあるようですが、この法律の規定による女子労働者の福祉の増進は「@母性を尊重されつつA性別により差別されることなくB職業生活と家庭生活との調和を図る事が出来るようにすること。」を本旨としています。 この「母性を尊重されつつ」という女性にとって、というより、次代を担う新しい生命を産むことという社会にとって最も重要とされることが忘れがちにされることに淋しさを感じずにはいられません。 子供は夫婦で育てるもの、社会全体で育てるものです。子供を産み、育てるという一大事業をやってのける女性にはとてつもない底力があるようにも思います。その底力を社会のために発揮出来る場があるということは、社会全体の利益にもつながることです。 幸いに、私が今勤務する職場は、結婚・出産を理由に退職しなければならないようなことはありませんが、昇進の機会・待遇面等で気になることが多々あります。「女性だから」というメガネを外して、公正なる評価をしていただきたいものです。 働き続けたいと願うすべての女性が真剣に仕事をしたいと願う女性が職場生活と家庭生活との調和を図りながら働き続けることができる、性別によって差別されることがない社会づくりのために努力したいものです。 男性にだけ任せておけません。世の中、男と女しかいません、お互いが協力しあってこそよい社会になるのではないでしょうか。
今年の夏'95 夏の始まる頃、第一回目の招集があった。それは、"モラロジー"という社会教育団体の青年部の夏の一大イベントの幕開けだった。私は、友人を誘ってそれに参加した。この頃は、今年の夏がいつもの夏と違い、大変でステキな夏になるとは知る由もなかった。 前々から少しだけ話は聞いていたが、「面白そう」とすごく軽い気持ちで参加し始めた私は、少し"あまちゃん"だった。それは、欽ちゃんの仮装大賞というTV番組に出よう!!という話だった。 第一回目の打ち合わせから、どんな仮装で、どのようにするのか、話は炸裂した。7月の終わり頃に書類提出締め切り日までには、たこ焼、焼きはまぐり、バンジージャンプなど、色々なアイディアが出された。(バンジージャンプは、わざわざ琵琶湖タワーまで、飛びに行った程だった。)その中で、なぜか、ベルトコンベアーの上を行く"もみじまんじゅう"に決まり、書類を送ると、「今までに無いアイディアだ。」(本当カナ?)と見事O.K.が出た。 それは、人が床に仰向けに寝て、足でおまんじゅうを送っていくというものだった。さっそく8月6日の近畿地区予選に向けて準備を始めたとたん、「イヤ、波のりの方がおもしろいんちゃうん?」という意見が出て、TV局とも相談をし、波のりに変更した。 超短い準備期間で出来るだけの衣装や、体の動き、背景、BGM etcを考え、社会人、学生など、17才〜33才まで老若?男女22人のメンバーを集め、毎晩のように道具の製作や動きの練習(私が一番練習したのは、合格した時の喜び方だった。)をし、一丸となりがんばった。 そして私はなぜか上に乗るたった一人のサーファー役に選ばれた。腰痛持ち(治療中)で、体、堅くて運痴だし、体重、重いのにEのカナ?と思った反目「いやーん目立ってEワ。」と簡単に引き受けてしまった。今から自分に襲って来る試練でコロッと変わった。 本番に出られるようになるには、更に8月18日マデに改善した演技をとったビデオを提出し、審査していただかなくてはいけなかった。 8月6日〜18日、それはお盆を挟んで実質10日間程度しかなくそれだけの期間で言われたことが出来るかどうかで、仲間の間に波紋が起こった。しかし、「自分たちから答えを出すのはやめよう!」ということになり、暑く忙しい中、続けることになった。今思えばこの時やめていたらせっかく集まった仲間はバラバラになっていただろう。 ビデオ撮りは、人数が集まらなかった為、スケットを何人か頼み、また最初から衣装(とは言うものの青いゴミ袋に青いビニールテープを貼ったもの)や動きをつくり直し、色々問題点は残ったが無事終わり期限までにTV局に送ることが出来た。 そして発表の日が来た。私たちは全国6129組中41チームの中に残る事が出来た。ラッキー!!タダで東京に行けて、テレビに出られる。またこの日から増々大変な日が始まった。連日連夜12時過ぎまで近くの閉校になった小学校の講堂を借りて汗まみれホコリまみれの練習が続いた。殆どの人が社会人ということで、全員練習に集まったのは、たった1日だった。 忙しい中、短い時間を有効に使って、動きを改良に改良を重ね、より波の動きをリアルに表現しようとがんばった。私が乗るサーフボードも4人の男の人がかついで、角度をつけて走りその上に立つなどだんだん高度になり、運痴の私にはつらい動きになり、最初は立てませんでしたが、涙・涙の特訓のおかげで、かっこうは悪いが、一応立てるようになった。うれP─!色々な人に差し入れやお手伝いをしていただいたりもした。 そしてとうとう9月9日、東京に行く日が来た。ワイワイガヤガヤ新幹線に乗る。But私は緊張しまくっていた。胃に穴が開きそうだった。この2ヵ月で4kgやせた。東京に着いた。バスで後楽園ホールまで移動する。この日はリハーサルを一度だけした。「んーすごくEよー。本番もこの調子でね。」予選ではボロクソ言われたディレクターの人にベタボメされ、嬉しいやら、気持ち悪いやら、でもその日はE気分で東京の夜をenjoyした。 本番の日、昨日のお酒と寝不足気味で、ボーとしているメンバーもいたが、みんな元気に最後のリハーサルに臨んだ。そこにはあの憧れの欽ちゃんの姿もあった。私たちはエントリーbP番、初っ端というプレッシャーが私たちを襲った。おかげでリハーサルはボロボロ、これまでに無い最悪の出来となった。この一回で波なので、手・足・顔をブルーに塗っているみんなは、心の中までブルーになり、サーファーの私は真っ黒に日焼けした手足顔だったけど、心の中はやっぱり深いブルーになっていた。 お客さんや審査員(大島渚・フーミン・高橋ひできetc)が続々席についた。とうとう本番が始まってしまった。幕の内には私たち22人がもうスタンバッていた。ドキドキドキドキ今までのつらかった2ヵ月間が走馬灯のように頭の中を駆け巡るはずだったが、タダ・タダ緊張と不安でパニクリそうだった。「練習と同じように気軽にやろう!」みんなで言いあった。 欽ちゃんがステージに立つ、幕が開く、演技が始まる、夢中だった。どんな風だったのか殆ど記憶にはない。プッププ・ププ……チャッチャン・チャッチャンチャッチャン。合格の音がする。みんな舞台に飛び出す。バニーちゃんがメダルをくれる。もうみんな錯乱状態、気が付くと涙がボロボロ流れていた。満点だった。ス・スゴイ、目標百万円(優勝)とは言っていたが、それも夢ではなくなった。私たちの興奮をよそに、番組は着々と進んだ。結果発表、特別賞が発表された。まだ呼ばれない、三位が発表された。これも違う、「満点なのに賞ナシってことはないよね。」少し焦る。「準優勝は!」大島渚が叫ぶ、「エントリーbP番波のり!!」「やったー!」マタマタ感動の嵐が私たちを襲う。涙が止まらない。みんなで抱きしめ合いチューしまくったというのはウソだが、生まれて始めて抱き合って感動の涙を流した。 |
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